国労の歴史 - 3.公労法のもとでの戦い
国鉄当局の当事者能力の欠如により、労使の自主交渉のみで賃上げが決定し解決したのは、1951年の一度だけ。毎年、調停・仲裁に移行し、57年以前は仲裁裁定不履行問題が再三、発生した
仲裁裁定の不履行に直面し、国労方針は合法闘争から合法的実力行使(順法闘争など)、実力行使へと変化した。交渉相手は国鉄当局であっても、闘争が実際は対政府的性格を持つことは必然であった。
1951年に国労は「実力行使宣言」を発した。1952年にはじめて順法闘争を実施。一斉休暇闘争も実施。1952年1月には、国鉄当局から国労三役の解雇処分が出された。
1952年に公労法の適用が3公社5現業にひろがるもと、1953年10月に公共企業体等労働関係法適用労組協議会(公労協)を結成、これを背景に国労実力闘争は強化された 1954年、解雇された役員の選出をめぐり、国鉄当局は公労法を根拠に団交を拒否、後にILO条約批准闘争に発展
春闘と実力行使
1955年 | 社会党右派と左派が合同し、統一を回復 保守合同により自由民主党となり、「55年体制」が成立。 共産党も第6回全国協議会(六全協)を開き、統一を回復 日本生産性本部が発足し、生産性向上運動を展開 民間単産による春季賃上げ共闘会議の結成、春闘の開始。1956年に国労は公労協とともに春闘に参加 |
1956年 | 公労協各組合が職場集会など実力行使を展開 国労は半日職場大会を実施、事実上の時限スト 政府が仲裁裁定の完全実施を約束、以後、これが慣行化 国鉄当局は888名の大量処分、処分反対の新潟闘争に発展。第二組合が結成された |
1964年 | 同盟会議が全日本労働総同盟(同盟)に 国際金属労連日本協議会(IMF・JC)が結成 |
三池闘争と安保闘争など
1959年 | 12月 三井鉱山三池炭坑が指名解雇を通告、翌1960年1月三池労組は無期限ストに突入 安保改定阻止国民会議の結成 60年1月には民社党結成 |
1960年 | 6月 安保改定阻止で約600万人の統一スト。国労は、国鉄のストとして初めての本格的な政治ストを決行 10月、新国鉄大阪地方労組が結成され、1962年新国鉄労働組合連合(新国労)が結成、のちに鉄道労働組合(鉄労)が発足 |
職場に労働運動を 現場協議制の確立
1965年 | 国労は、職場の日常活動による労働者の権利擁護、職場の交渉権、組合活動の自由の確立、政治活動の自由の確立を、職場・地域の闘いをとおして、職場・地域に確立することを方針化 具体的には、事業場単位の36条協定の締結、職場団交権の確立をはかる |
1966年 | 国鉄当局に現場における団体交渉制度の確立を申し入れ 現場でなければ解決できない事項(12項目)の要求をまとめ、下部機関からの団交をとりくみ |
1967年 | 公労委から勧告が出され、闘争を背景に「現場協議制度」を設置 翌1968年に3月闘争の実力行使を背景に、「現場協議に関する協約」の労使合意が成立 |
反戦・平和と民主主義擁護の闘い
1960年代後半、アメリカはハノイなどへの北爆、ラオス・カンボジアにと戦域をひろげ、ベトナム侵略戦争は激化していた。日本政府は日米安保体制の強化を鮮明にし、日本の米軍基地はまさに前進基地の役割を果たしていた
日本国内では、物価上昇、公害などの問題が噴出し、「紀元節」復活、教科書検定の強化など反動化を強める動きも強まっていた
労働者・国民は、不公平税制反対、運賃・諸物価値上げ反対、教科書検定反対、小選挙区制粉砕などの要求をかかげ、統一行動を展開した
国労は、労働者・国民の闘いの一環として、日韓条約批准反対、ベトナム反戦闘争と軍需輸送阻止闘争、70年安保などの諸闘争で奮闘した
1965年 | 日韓条約をめぐって、社会党と共産党は、総評を間にした「ブリッジ」方式で共闘し、5次にわたる闘いを組織した 6月に日韓条約が締結され、11月7日に委員会で条約承認が強行され、これに抗議する9日の統一行動には、全国で延べ60万人、中央で18万人が集会・デモに参加した 12日にわずか2分で本会議で採決が強行され、この暴挙に12日から13日にかけ、国労は抗議ストライキで闘かった 国労関係者20人が逮捕され、解雇5人など重い処分がかけられた 国労はこの闘いをへて、ストライキによる処分などを回避するためにとっていた、それまでの組合がストライキ対象者を「らち(確保)」する形式から、しだいに自主参加方式によるストライキが一般化していった |
1966年 | 総評は大会で、抗議ストライキをふくむハノイ・ハイフォン爆撃に抗議するたたかい、政治反動体制と軍国主義反対の決議を採択、臨時大会で10・21ベトナム反戦ストライキを決定 国労は総評方針を全面的に支持し、10・21ストライキを決行した 国鉄当局は、11月に停職51人をはじめとする処分を発したが、解雇はなく、ベトナム反戦闘争の国民的ひろがりと共感を反映するものとなった 総評は10月21日を国際反戦デーと定め、国際的な統一行動を呼びかけ、その後、全国各地で「10・21国際反戦行動」が展開された |
1968年 | 8月8日、新宿駅構内でガソリン満載の貨物列車の衝突事故が発生し、機関車とタンク車3両が炎上する事故が発生 日米安保条約第6条の優先使用権を根拠に、国鉄はアメリカと協定を結んでおり、米軍の軍需輸送はベトナム戦争の拡大によって、激増していた、国労は過密ダイヤと米軍需輸送の激増が原因と発表 国労は順法闘争で闘い、東京・名古屋(笹島地区)・門司などでも実施した |
1970年 | 日米安保条約破棄をかかげ、6月21日からの順法闘争に続き、23日にストライキを決行 |